「理解」の前提をなすもの。その有無による議論の特性について。

理解の前提をなすもの。

それは、その理解を得るために使用する「言葉」を聞いたときのイメージが、共通・類似であることです。

「言葉」のイメージが共通・類似であるとはどういうことか。

それはその言葉が表していることを、共通・類似の経験による実感で捉えていることです。

陳腐なたとえですが、「自由」という言葉を聞いたときがいい例です。

・そこに権利と義務に支えられたものとしての自由を見てとるか、
・束縛を前提として初めて成立するものと見てとるか、
・あるいは、無際限の開放としての自由とみてとるか。。。

共通・類似の体験がないとき、相互理解は成立するか

では、そもそも共通・類似の体験がなかったら、言葉だけで相互理解は成立するのか、ということを考えたとき、答えはノーでしょう。

もちろん、自然科学的な思考の強い人は、今まで「客観」ばかりを扱ってきているから、相互理解は「できる」という事例を挙げてくるかもしれません。

しかしそれは、生理のことであったり本能のことであったり、本能的なことで相互理解の事例に留まるでしょう。一言でいえば、そのような人たちが挙げてくる例は、人間のさまざまな側面のうち自然科学的に説明できることのみ、ということになりましょう。

が、社会科学の方面にいた人は、その人の住んでいる地域、文化、気候風土、歴史によって、たったひとつの言葉もどれほど解釈が異なってくるということを知っているのではありますまいか。

人生経験もまた相互理解のための重要な要素

この前提を押さえておけば、たとえば社会経験の少ない学生に、政治のこと、組織運営のこと、気遣いのこと、などの意見を求めても意義のある議論などできないことは容易に分かります。

たとえば社会に出たことのない学生であれば次のような議論は恐らくうまく掘り下げられないと思います。

「個々人間の不和など、空気のごとく当たり前で、そのなかで様々な立場に応じて、物事を進めるにはいかにすべきか。」

そういう人たちからは次のような意見が大勢を占めるものと思われます。

「仲直りしてから」「不和の理由を取り除いてから」「不和な人を排除してから」「論理的に説明したら納得してくれるはず」「納得させる解はあるはず」と。

が、現実は、不和は不和のまま、お互いを立てて進める、という現実解しかないと言えましょう。

物事を進めるための議論の場では、このことを理解している者同士であれば、不和のままお互い立つ妥協点を探るための議論は進む。

ドライに、政治的に、淡々と。

そして、「このこと」を理解していない者が含まれる場では、喧嘩しながら無意味な結論に達するか、解散するということになりましょう。

自分は最近、仕事上の業務改善について、この後者の場に居合わせることになったのですが、

あることに対して理解している範囲があまりに異なることにすぐに気づきました。

というわけで、自分としては言っておくべきことは絶対に言う、だが、同意してもらおうとは思わない、というスタンスで臨みたいと思う今日この頃でした。


かつて自分が、とある企業で、リーマンショック直後の業務改善におけるメモ。

日本のIT化を阻むものは、日本人の思想的態度に他ならない

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